JABとその後の浪々時代ジンバブウェから帰った私は、もう海外での生活に耐える気力が無くなっていた。 本来なら、引き続きネパールの7年のプロジェクトにといわれていた。 しかし、ジンバブウェでの隣人の協力があって、出来た生活を、今度はどうなるか分からない、おそらく文化程度はもっと落ちるネパールでの生活に適合出来るかどうか、はなはだ疑問であった。 帰国2-3日して歯が痛くなり、2本抜歯することになった。 私には黒い犬がいる。いつ本気で牙をむくかも知れない。それに耐えるだけの備えがあるとは言えない。 私は、日本での執務を希望したが、それは日本工営での仕事ではあり得ないことを示していた。 14日は休み、15日日本工営に出社した。出張の精算などを行った。 そのまま長い間ご苦労さんと言うことで、日本工営での仕事は終わった。後で送別会を催してくれたが、概して、外人部隊である身の上には、空々しい感じがした。 ブルーであった。 元の会社が次に用意してくれた出向先は、日本適合性認定協会(JAB)、であった。ISOの認定で知られるこの協会は、日本化学協会、日本造船工業会、日本鉄鋼連盟、日本電気学会、日本電子学会等でなる財団法人である。 私は造船工業会の代表という形で、派遣されることになった。造船工業会にも挨拶に行かなければならない。運輸省にも挨拶に行った。 12月1日取り敢えず、旧職場の本社に席が移った。仮の復職である。 早速JABへ面接に行った。 英語の口頭試問があるということで緊張したが結局はなかったので、取り敢えず内定した。 岡山の家も帰る当てが無くなったのでそろそろ売りに出そうと考え始めた。考えてみれば、自分は根無し草のようだ。自分の行くところがふるさとで、過ぎてきたところは全て幻にしかならない。自分にはふるさとはないのだと思い知った。 それにしても、こんな身の上になったら、友人知人も鼻も引っかけてくれないだろう。 寂しいものだ。 早々とJABでの歓迎会が催された。 JABに入るために習得しておいた方が良いであろうと、審査員補の資格を得る講習会に出席した。 この講習会は、一週間缶詰で行われ、いろいろな場面を想定したロールプレイイングなど、盛りだくさんで、非常に疲れるものだった。 最後の試験では、数名の落伍者が出たが、私は何とか引っかかることが出来た。 その事を喜んではいられない先行きの不安が支配した。 1997年も明けた。初詣は、近場の日吉神社で済ませた。 6日からJABに初出勤した。赤坂の鉛筆のような5階建ての狭いビルで、息が詰まりそうだった。毎日ここに通うのかと暫し嘆息したものだった。出勤と同時に、専務理事の挨拶があり、それでも職務内容については、はっきりしなかった。 ここには品質マネジメント部と環境マネジメント部、試験所検査部の3部門があり、その品質マネジメント部に配属された。 品質マネジメント担当部長といっても実質的には部下がいない、孤独な作業である。さらに段々分かってきたことだが、ここの部長というのが、典型的な自己中心主義でで、陰湿なやり方に私は我慢が仕切れなくなっていくのだった。 私の仕事は、審査期間(ISO9000関係である)の適否を判定する審査員の手配を、巧く行うことでしかなかった。要するに、芸者の置屋のやり手婆といったところだ。それでも私は一生懸命勤めた。 当時は適合する認定機関も少なかった。 都内芦花公園に引っ越すことになった。千葉から通うのではここ赤坂はあまりに遠いからだ。しかし、芦花公園の借り上げ社宅は、悲惨なものだった、周りの環境は良いものの、あてがわれた社宅は、劣悪で、狭い上に天井が低く、息苦しいものであった。 千葉時代は庭付き4LDKと大変な広さだったので、家具なども悠々置けたが、今度はどうしようもない位狭かった。 さらに、都会なので、車はもてないと考えて、手放すことになった。千葉での日産のセフィーロは、優雅に乗れたものを、東京はなぜこの様にごみごみしているのだろう。又駐車場の代金が異常に高い。 昔の千葉時代の友人に売却を依頼した。 毎日が砂を咬むような日々であった。 品質マニュアルの見直し、手順書の作成、どれもこれも興味の湧くものではなかった。 そのころ、黒い犬対策で、2軒の医院を渡り歩いた。信用出来ないという訳ではない。ただ早く払拭したいと考えたからだ。しかし、環境が悪いため、四六時中陰湿な責めに合うとどうにも耐えられなくなる。 先任の、Takさんという高齢の人がOJTで付いてくれてはいたが、私には不十分なアドバイスしかくれなかった。 挙げ句は、その人が悪いはずがないので、思うようにいかないのは私が悪いのだという風潮になってしまった。 出向元の人事関係の人間と、品質マネジメント部長、総務部長、造工の人が私の処遇について話し合ったようだ。 それによると、能力はあるが、やる気がないのではないかとの評価を品質部長は言い、システム化に対しても主体性がないと決めつけられたようである。 そうこうしている内にグローバルテクノから審査員補の合格証が届いた。 JABではそれを元に、暫く様子を見ようと言うことになったようだ。 審査員の割り当てや、新しい審査申請など、内容はともあれ多忙な日が続いた。 手順のシステム化では、女性をデーターベース(マイクロソフトのACCESS)の講習会に派遣しても、私には声が掛からなかった。 そんな中、システムの内容も完全に把握していない身の上で、如何に主体的になれと言うのか、これは陰湿な虐めでなくて何であろう。 品質部長の口調と、責めの言葉が、まとわりつくは虫類のそれに似て、生理的嫌悪を感じないではいられなかった。 この前後から東京で自宅を購入する検討に入った。いろいろな展示場を回った。狛江から北赤羽と周り北赤羽のマンションに申し込んだ。 環境は狛江の方が良かったが、家の広さを優先してきた赤羽に決めた。 それが間違いだったことに気がつくのはすこしたってからのことだった。 現在のパソコンもこの時期に購入した。 1997年3月22日北赤羽マンションの当選通知が来た。 また一週間後には運良く岡山の家が売れた。岡山を往復し、売却の手続きをして、金を銀行に預けた。 岡山の家を売る件については徐々ではあるが進んでいた。 4月1日付人事で、新しい人が入ってきた。皆どこかの工業会からの派遣だ。 品質からはTakさんが、事務局審議役に変わった。 会議も、品質認定委員会、品質技術委員会と回を重ねた。その議事録を作るのも私の仕事として押しつけられた。 何しろ陰険な奴はどこまでも陰険で執念深い。 建物の5階には、重要書類の書庫がある。審査員はそれを見て不適合がないかどうかを判断する材料にする。ここの管理も私がやらなければならない。 沢山の審査員が入れ替わり立ち替わり出入りをする。書庫の鍵を受け渡し受け取るのも殆ど私であった。 毎日検査、検査の連続で、検査希望に添って検査員をお願いしなければいけない。にもかかわらず、検査員との日程が合わないことが多い。苦労して、代わりの検査員を捜す。そんな毎日が延々と続く。 終いに、仕事を家まで持ち帰らなければならなくなった。 何と実りのない仕事だろう。品質部長は嫌な仕事は、他人任せで、自分は良いとこ取りをして、人を非難する。最低の男だと思った。 いやだ、いやだと思っているうちに、9ヶ月が過ぎた。 最初の出向期限が来た。当然の事ながら、期間延期の話は出なかった。 私は今度こそ追い込まれてしまう。もう行くところがないのだ。 私は、帰る席もない元の会社から、ウェイステーション(人材派遣会社のようないわば芸者の置屋である)に席を移すように言われた。 屈辱的な日々が始まろうとしていた。 ウェイステーションでは、一通り、財務、経理、社会保険などのカリキュラムが用意されていた。外人教師が来て、英会話のレッスンのまねごとも行われた。 更に、初心者向けのパソコン講座がパソコンスクールとのタイアップで行われた。 最初は、履歴書など応募書類の書き方などキーになることを指導された。 履歴書の添付資料では、如何に自分を高く評価されるかを中心に表現を練った。 いずれにしても、全ては、高い金を取るための方便であった。集まった人の経歴の中には一級建築士の資格を持った人もいた。それまで各々の会社でしかるべく苦労をした人たちが集まっているようだった。 今まで英語を話したことがない人も多く、英語のレッスンも途切れがちであった。国内の企業戦士というのは、殆どこんなものであろう。私のわずかな英語力でも初歩的な会話は十分であったし、それについてこられない人か殆どだった。 パソコンスクールでも、今までキーボードを叩いた人はなく、四苦八苦していた。 私は、自分の趣味を兼ねて、常時パソコンを使っていたこともあって、基礎的なことでは飽き足らなかった。 一通りそれらカリキュラムが終わると、後は、自分で、職を探すべく、職安や、人材銀行(交通会館)へ出かけた。 毎日行ってもただ大勢の人にもまれるだけで、自分に合う適職はそう易々と見つからない。 ウェイステーションと会社との契約はどうなっていたかは詳細に分からないが、元の会社も出向先を探すし、ウェイステーションでも責任を持って、適職を探すことになっていた。 そんな中、個人的にも就職活動をするようにとのことは言うまでも無くあった。このご時世で、リストラばやりの中、いったん企業に見放された者にそう易々と中途就職の道はないのが当然である。 ウェイステーションで準備されていたカリキュラムがある間は、何とか間が持てたが、それが終わる頃になると、急に再就職がせっぱつまったものになってきた。 行くところがないと終日、部屋で、何するとなく時の経つのを待つのである。 そんなある日、NHKが取材をしたいので協力して欲しいと言われた。ウェイステーションの宣伝もあるが、リストラにあえぐ求職者の実体に迫るというものだった。 私は嫌々ながら応じた。その番組は1週間余り先の土曜日NHKの首都圏ニュースで小さく取り上げられた。 11月も終わり頃、相変わらずカリキュラムは残り少ないものの続いていた。 そんな中、大阪からTNa君がやってきた。積もる話をしたが、TNa君を狭い社宅に泊まらせるのに苦労をした。 そのうち、押上にある「岡部」から面接すると言ってきた。ウェイステーションの担当者を通じて、初めての引き合いである。 その日に一人で岡部の本社に面接に行った。営業部長や、人事担当の部長の面接を受けた。 面接の結果については、好感触をもって帰った。結果はウェイステーションを通じて知らせるとのことだった。 その後1週間に1度の割合で、ウェイステーションとの二回目の面談の日が設定された。 面談の日に元の会社の人事担当者が、同席した。結局再就職先は見つからないと言うことの確認だった。 一方、マンションの説明会が東京であるという。こんな時、マンションを購入することは無謀かと思われたが、もう判断能力を失っていたのかもしれない。 更に、現在の地獄のような、部屋の狭さと天井の低さにどうしようもないものを感じていたのは確かだった。 何故自分だけが、こんな不遇に合わなければならないのだろう。それほど悪いことをしたわけではないし、会社にはそれなりに貢献していたはずだが、こういう力学は、どう働くのか、全く予想だに出来ない。 それにしても岡部の結果がこない。ウェイステーションの担当者に問い合わせるものの、返事が無いという。 マンションの説明会の後10日ほどで、マンションの内覧会の通知が来た。 その年は焦りと、落ち着かないままに暮れていった。 思えば、この一年間は艱難辛苦の一年間だった。JABの性悪な上司(MN)にいたぶられ、赤坂の事務所に行くことすら苦痛でならなかった。その男は優秀な頭脳をもっていたようだが、組織の中で、どのようにマネジメントするかはとんと意に介さないようであった。 典型的なワンマンタイプであった。 その後、私の前に、それ以上の嫌な男が現れるなどとは夢想だにしなかった。 結局、その男の一存で、JABを放り出され、たちまち路頭に迷うことになる。 元の会社での地位が低かったせいか、それとももう元の会社の関連会社も引き受ける余地が残っていなかったのか、私は行き場を失ったのであった。 日本工営での海外勤務に耐えられれば、7年間のネパール滞在は保証され、その後の期待もあったのだろうが、そこで、引っ込んでしまったことは、私の精神状態を考えたら、やむを得なかったのだが、これも運命だったのかもしれない。 人生もゴルフと同じである、「たら、れば」ならばもっとハッピーだったかもしれないのは、当てはまる。 1998年が開けた。ウェイステーションに面談に訪れた。特に変化はない。 帰りに明治神宮を訪れ、初詣をした。たくさんの初詣客に紛れて、岡部への入社と、病気平癒を願って参拝した。 年の初めは、身も心も改まり、やる気が横溢するものだが、今年は何か満たされない年明けとなった。 引っ越しの下見にも行った。いよいよ新居への入居が近い。 1月13日岡部の2時面接が設定された。長い間待たされた。後は運を天に任せる他はない。 マンションの再内覧会があり、その後ウェイステーションで、元の会社からの電話を待てとのことだったので、何事かと待機した。結局会社からは何の連絡もなく、代わりに岡部から採用見合わせの通知が届いた。 翌日はショックで寝込んだ。元の会社の人事担当部長が来るというので、渋々ウェイステーションに出かけた。 ウェイステーションの担当者からは、元気づけるためか、生活のリズムを壊さないで欲しいとのアドバイスがあった。会社の方へは、頼んでみても、やってみるとだけで、具体的なことは何も聞けなかった。 金を払って、ウェイステーションに頼んでいるのだから、と言う感じがもろに分かり不快なものだった。 その後、ウェイステーションからは、2~3社の名前が出たものの、残念なるかな、具体性の乏しいものだった。 通り一遍のウェイステーションの面談があった。意図的にかどうか、担当者が替わっていた。 前回名前の出た会社は採用を止めているので、駄目だとのこと。何となく万事休す。 また振り出しに戻ってしまった。 私は、今まで就職の苦しみをしたことがない、殆ど、ところてんで来たので、こんな逆境には弱い。 全くどうして良いのか分からないのだ。 ウェイステーションの前担当者は、人材銀行にも当たって活路を開くようにと言うが、私にはそれは逃げ口上としか思えなかった。 マンションの鍵引き渡しが東京であり日曜日に引っ越し準備(積み込み)をして、本引っ越しに備えた。 引っ越し後のウェイステーションでの面談では、担当者も段々と精神論を言い出した。 「まいったとは言わない」とか、「努めて明るくする」とか。要は、売れ先がないのである。 同じ時期に入った人たちは、そこ此処と就職先が決まっている。私は、資格も何もないので、こんな時には、全くだるま状態である。 2月に入って、本気に焦りだした。元の会社もそう長くただ飯を食べさせてくれるわけではない。 人材銀行にも数度足を運んだ。数少ない職種の中から、選んでみても、全て年齢制限で引っかかってしまう。どうしようもなく、飯田橋の職安に行った。 自分が失業率、5.数%の中にいるのだと言うことを肌で感じた。 ハローワークの壁に立てかけられている冊子の中に、年齢不問で、過去の経験を少し生かせそうな求人広告を見た。 それは外資系かと思える横文字の会社である。給料は低かったが、失業よりは良い。早速窓口に応募の申し込みをしたが、窓口では、「もう既に7人くらい申し込まれていますよ」とのことだった。 しかしせっかく来たのだから、そのまま申し込むと。すぐ面接の日程が設定された。 面接の会社は人数も少なく、新橋の渡瀬ビルという小さなビルの小さなフロアーで執務部屋の一角で面接の順番を待たされた。おそらく申し込み順であろう、私の順番は最後だった。 7人いたかどうか。待っている間に技術のことが書かれたパンフレットを見せられ、ジャッキやポンプが書かれている内容に、私はどうも畑が違うのではないだろうかと感じた。 正直2~3人が終わった頃に私は、いたたまれない感覚に襲われ、面接を受けずに退散しようかと何度も思った。一方、失業の辛さは、何物にも代え難くせっかく来たのだから、受けるだけでも受けてその後考えればいい、まだ採用されるかどうかも分からないし、7人もいるではないか。 じっと耐えた。いよいよ自分の番が来た。もう定時近くになっていた。 社長も、N氏も相当疲れているようだった。 社長は、私の面接の途中居眠りをし出した。N氏はどうして良いか分からず、社長に伺いを立てた。 社長は関西出身で、私の高校のことも、大学のことも良く知っていたので、話はスムーズに行った。 技術の総帥であるN氏は私より学年で1級下だった。社長は「年の差は、余り関係がない、浪人すると同じだ。君らが仲良くやれるなら、それで良いんじゃないか」 それが採用の内示であったらしい。いともあっけなく決まってしまった。 N氏は、技術の分野でのサポートがなかったので、是非はやく仕事をして貰いたいとの思いから、 いったん帰ろうとする私を追いかけて、「いつ来てくれる」とせっつく始末であった。 それでも一週間の余裕を貰い、いったん会社を辞した。 私のせっぱつまった就職活動をと、今時の再就職ではよほどのことがない限り高額の給料を期待する方が無理だと分かっていたので、ここらで手を打つこととした。 当面元の会社からの出向扱いであれば、給料の一部は元の会社から補填され、現給料は確保されるはずである。 元の会社に出向扱いを現会社に納得して貰うべく交渉した。 現会社は、出向のなんたるかを余り理解していないようだったが、元の会社の人事の説明により納得してくれた。しかし元の会社も管理職の2割の賃金カットなので、いずれにしても給料のダウンは免れなかった。 ジャンル別一覧
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